~パラ学の現場から~講師特集① 加藤 正

2021年に開始したパラ学も5年目に突入し、受講者は1万人を超えるまでになりました。
今回の特集ではパラ学のことをより知ってもうらために、4人の講師陣のインタビューを行いました。

初回は「カトちゃん」こと、加藤正さんに共生社会づくりへの想いを伺います。

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1969年生まれ、伊那市出身。小学2年の時骨肉腫により左大腿部を切断。
パラリンピックには1988年夏季ソウル大会に競泳で初出場。1994年冬季リレハンメル大会以降は氷上競技の「アイススレッジスピードレース」や「アイススレッジホッケー(現:パラアイスホッケー)」で2006年トリノ大会まで連続出場。1998年冬季長野大会では「アイススレッジスピードレース」で2つの銀メダルと1つの銅メダルを獲得。日本選手団の主将も務めた。
1998年長野大会を契機に子ども向け中心に講演活動も始め、今では全国を飛び回り年間約150回を実施。
車のカスタマイズが好きで結構特徴的な車に乗っている。
加藤さんには「車いすボールチャレンジ」の開発からパラ学に関わっていただいています。約1年ががりで完成させたプログラムに手ごたえを感じていると言います。

(加藤さん)

「車いすボールチャレンジ」は本当によくできたプログラムで、子どもたちや先生からもれなく高評価なのが印象的です。

「車いすボールチャレンジ」では①相手の立場になって考える②出来ないを出来るにする、この2点を意識するように教えていますが、ルール内容やプログラム構成により効果的に子どもたちに伝わっていると感じます。

正直、「長野県オリジナルの教育プログラムを作る」と聞いた当時は、無理だろうな、と感じていました。それでも完成させたのは、たくさんの大人が「出来ないを出来るにする」のマインドで取組んだ結果だと思います。

開発当時は県の担当者と何回も打合せをして、体育館を借りて大人で実際にテストしてみて、プロトタイプを子ども達にやってもらって感想を聞いて、細かい修正をしてと、1つの商品を作る位の労力がありました。

授業ではほとんどの子どもたちが初めて競技用車いすに乗って、「車いすボールチャレンジ」を行います。

1回目はもちろん苦戦するのですが、2回目をやる前の作戦会議では色々なアイデアが出てきます

1回目は個人プレーが多いですが、作戦会議をすることもあって2回目はチームとしてプレーする意識が格段に強まります。スポーツなので、作戦が上手くいかないこともありますが、ゲーム後には「みんなで考えて挑戦したこと」をほめるようにしています。

2回目をやった後は更に「こうしたらもっと点が取れる」という気持ちになりますが、時間の都合もあり3回目はやりません。でも、その不完全燃焼の状態が結果的には、単発のこの授業が子どもたちの記憶に残ることにもつながっていると思います。

ちなみに、母校の伊那西小学校でやった時に、ゲームで12点取ったチームがいたことがとても印象に残っています。

伝統的にミニバスが強くて、選手が何人かいたという点を踏まえても、小学生で10点以上は「できない」と思っていたので、「出来ないを出来る」にする気持ちが大事だと私自身も実感しました。

加藤さんの講師経験は長野パラリンピックの開催前から始まり、30年近くのキャリアを誇ります。長野パラの頃と今では話す内容も変化しているようです。

(加藤さん)

長野冬季パラリンピックの頃は、「障がい者スポーツ」という概念自体がほとんどの人に知られていない状況だったので、とにかく「私たちのやっているスポーツを知ってください」というのが講演の趣旨でした。

当時は「障がい者がスポーツをするなんてとんでもない」という人も多くいましたが、長野パラをきっかけに障がい者も当然にスポーツをすることが社会に認知されたと思います。

東京2020大会では「パラスポーツ」の認知度向上に加えて、「スポーツをきっかけとした共生社会づくり」の機運が高まりました。

私も共生社会づくりへの想いがあるため、同じタイミングで主題は共生社会づくりで、パラスポーツはそれを実現するために効果的なツール、という構成で話をするようになりました。

共生社会の実現には色々な考え方がありますが、私は「車いすボールチャレンジ」で伝えている2つのキーワードがまさに必要な考え方だと考えています。

パラ学の講演では障がいは人ではなく社会にあるという、「障がいの社会モデル」について触れています。車いすユーザーが2階に上がれないのは車いすに乗っていることではなく、階段しかないことが「障がい」である、という考え方です。

障がいある人が不便に感じることのほとんどは、提供する側が「相手の立場になって考えて」いなかったり、難しさや面倒さから「出来ない(やらない)」ことに起因すると思います。

「車いすボールチャレンジ」での体験と掛け合わせて、講演では2つのキーワードが子どもたちの心に残るように意識をしています。

加藤さんの共生社会への想いは、1998年の長野パラリンピックまで遡ります。当時のできなかったことが今の原動力となっているようです。

(加藤さん)

先ほど、東京パラをきっかけに共生社会への機運が高まった話をしましたが、実は長野パラリンピックの当時もその機運が高まったように感じていました。

ただ、大会が終わると一気に世間からは忘れられてしまいました。残念ながら共生社会づくりは長野パラリンピックの「レガシー」にならなかったのです。

でも、私は「NAGANO」のレガシーは今からでも作れると思っています。それは選手だった私を含めて、県内には当時のことを知っている人がたくさんいるからです。

パラ学講師の新津さんは小学生の頃に長野パラを見たことがきっけかでパラアイスホッケーを始めました。学校の先生では組織委員会で働いていたり、大会を見学したりした方がたくさんいます。

こうした人々が県内各地にいるのは長野県の大きなアドバンテージです。「NAGANO」を知っている世代が、次の世代のためにレガシーを作っていくのがミッションだと思って取り組んでいます。

キャリアを通じて共生社会に向き合ってきた加藤さん。最後に今後の意気込みを伺いました。

(加藤さん)

共生社会づくりはまだまだ課題だらけのテーマですが、間違いなく進んでいる部分もあると思います。

例えば学校現場において、昔であれば友達に公表できなかったジェンダーに関することも、受け入れられていると聞きます。

一方で長野県の特別支援学級の在籍率は高くなっていて、個人的には共生社会の流れと逆行しているように感じます。

インクルーシブ教育という言葉もあるように、みんなで一緒に学ぶことが当たり前の社会になるといいですよね。

その点では、やはり先生の役割がとても重要です。パラ学は子ども達向けにやっていますが、それを見た先生たちにも共生社会への意識が高まることを期待しています。

多様性が広がっている一方で人口減少が進む日本では、限られたものでどうやって工夫するかに長けている人材が重宝されると思います。

「車いすボールチャレンジ」の「未知のスポーツの限られた状況(ルール)の中で、チームみんなで工夫してそれぞれの役割を果たして結果を出す」というプロセスの体験は、子どもたちの成長のきっけになります。

これからもたくさんの子どもたちと出会えることを楽しみにしています。

 


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